谨忆周树人君的原文谨んで周树人様を忆ふby藤野厳九郎そのときの谈话をまとめたのが「谨んで周树人様を忆ふ」であり、「文学案内」三月号に掲载された。...
谨忆周树人君的原文
谨んで周树人様を忆ふ
by藤野厳九郎
そのときの谈话をまとめたのが「谨んで周树人様を忆ふ」であり、
「文学案内」三月号に掲载された。
次に全文を绍介する。
古いことで记忆がハッキリして居りません。
私が爱知医学専门学校から仙台に転じましたのは确か明治三十四年の暮れでした。
それから二年か三年して支那から初めての留学生として入学されたのが周树人君でした。
留学生のことですから别に入学试験を受けず、落第生三十人余と新入生百人程の中に
只一人まじって讲义を聴いてゐました。
周さんは身丈はそんなに高くなく、丸颜でかしこさうな人でした。
この时代も余り健康な血色であったとは思はれませんでした。
私の受持は人体解剖学で教室内ではごくまじめにノートをとって居りましたが、
何しろ入学された时から日本语を充分に话たり、闻いて理解することが
出来なかつた様子で勉强には余程骨が折れたようでした。
それで私は时间が终はると居残って周さんのノートを见て上げて、
青野人が闻き违ひしたり误つてゐる処を订正补笔したのでした。
异境の空にそれも东京といふなら沢山の同胞留学生も居たでせうが仙台では、
前にも云ひましたやうに周さん只一人でしたから淋しいだらうと思ひましたが
别にそんな様子もなく、讲义中は一生悬命であつたと思ひます。
其の当时の记録が何か残つて居りますと周さんの成绩もよく判かるんでせうが、
现在は何もありません。
大して优れた方ではなかつたと记忆します。
その顷私は仙台の空堀町と云ふ処に一家を构へて居りまして私の家へも游びに
来られたこともあつたでせうが思ひ出すようなことはありません。
逝くなつた妻が居れば一寸は知つてゐましたでせうが、一昨年でしたが
私の长男达也【恒也が正しい】が福井中学校に居りました顷汉文の受持先生であつた
菅といふ人が、
『君のお父さんのことが书いてあるから読んで御覧、若し差腕圧たら话を闻かせて贳ってくれ』
と云つて周さんの书かれた本を借りて帰へり见せてくれたことがありました。
これは何でも佐藤とか言ふ人の訳でした。
其の後、半年程して菅さんが会ひに来られその话も出て周さんが支那に帰へられて
立派な文学者になつて居られることを承知しました。
此の菅先生は去年死なれました。
现在姫路师范の先生をしてゐる前田さんもこんな话をし居られたと闻きました。
话は前後しますが、周さんは学校をたしか一年程続けたきりで颜を见せんやうになりました。
今思ひ出しますと何でも医学の勉强が心からの目的で中ツタのでしたでせう。
私の家へ别れの挨拶に来られたのでせうが、その最後の面会が何时であつたか忘れてしまひました。
私の写真を死ぬまで部屋に掲げておいてくれたさうですが、まことに嬉しいことです。
以上のような次第でその写真を何时どんな姿で差し上げたのか忆えて居りません。
卒业生なら一绪に记念撮影もするんですが周さんとは一度も写したことがありません。
どうして手に入れられたでせうか。
妻がお渡ししておいたのかも知れません。
私もそう言はれるとその顷の自分の姿を见たいように思ひます。
私のことを唯一の恩师と仰いでいてくれたさうですが、私としましては最初に云いましたように、
たゞ、ノートを少し见てあげた位のものと思ひますが、私にも不思议です。
周さんの来られた顷は日清戦争の後で相当の年数も経ってゐるにもかゝわらず、
悲しいことに、日本人がまだ支那人をチャンチャン坊主と云ひ骂り、
悪口を云ふ风のある顷でしたから、同级生の中にもこんな连中がゐて
何かと众参を白眼视し続け除け者にした模様があつたのです。
私は少年の顷、福井藩校を出て来た野坂と云ふ先生に汉文を教えて贳らひましたので、
とにかく支那の先贤を尊敬すると同时に、彼の国の人を大切にしなければならないと
云ふ気持がありましたので、これが周さんに特に亲切だとか有难いといふ风に考へられたのでせう。
このために周さんの小说や、お友达の方に私を恩师として语ってゐてくれたんでしたら
それを読んでおけばよかつたですね。
そして死ぬまで私の消息を知りたがつていたんでしたら音信をすれば、どんなに本人も
喜んでくれたでせうに。??
今となつては如何とも出来ません。残念なことでした。
何しろこんな田舎に引込んで世间のこと、特に文学と云ふことに门外汉ですから何も知りません。
それでも先日新闻で周さんの鲁迅の死なれたことは新闻で読みました。
今始めて话を聴いて以上のことを忆ひ出したのです。
周さんの御家族はどうしていられませうか。子供さんはおいでゞせうか。
仅かの亲切をそれ程までに恩谊として感激してゐてくれた周さんの霊を厚く吊ふと共に
御家族の御健康を祈って已みません。
by藤野厳九郎
そのときの谈话をまとめたのが「谨んで周树人様を忆ふ」であり、
「文学案内」三月号に掲载された。
次に全文を绍介する。
古いことで记忆がハッキリして居りません。
私が爱知医学専门学校から仙台に転じましたのは确か明治三十四年の暮れでした。
それから二年か三年して支那から初めての留学生として入学されたのが周树人君でした。
留学生のことですから别に入学试験を受けず、落第生三十人余と新入生百人程の中に
只一人まじって讲义を聴いてゐました。
周さんは身丈はそんなに高くなく、丸颜でかしこさうな人でした。
この时代も余り健康な血色であったとは思はれませんでした。
私の受持は人体解剖学で教室内ではごくまじめにノートをとって居りましたが、
何しろ入学された时から日本语を充分に话たり、闻いて理解することが
出来なかつた様子で勉强には余程骨が折れたようでした。
それで私は时间が终はると居残って周さんのノートを见て上げて、
青野人が闻き违ひしたり误つてゐる処を订正补笔したのでした。
异境の空にそれも东京といふなら沢山の同胞留学生も居たでせうが仙台では、
前にも云ひましたやうに周さん只一人でしたから淋しいだらうと思ひましたが
别にそんな様子もなく、讲义中は一生悬命であつたと思ひます。
其の当时の记録が何か残つて居りますと周さんの成绩もよく判かるんでせうが、
现在は何もありません。
大して优れた方ではなかつたと记忆します。
その顷私は仙台の空堀町と云ふ処に一家を构へて居りまして私の家へも游びに
来られたこともあつたでせうが思ひ出すようなことはありません。
逝くなつた妻が居れば一寸は知つてゐましたでせうが、一昨年でしたが
私の长男达也【恒也が正しい】が福井中学校に居りました顷汉文の受持先生であつた
菅といふ人が、
『君のお父さんのことが书いてあるから読んで御覧、若し差腕圧たら话を闻かせて贳ってくれ』
と云つて周さんの书かれた本を借りて帰へり见せてくれたことがありました。
これは何でも佐藤とか言ふ人の訳でした。
其の後、半年程して菅さんが会ひに来られその话も出て周さんが支那に帰へられて
立派な文学者になつて居られることを承知しました。
此の菅先生は去年死なれました。
现在姫路师范の先生をしてゐる前田さんもこんな话をし居られたと闻きました。
话は前後しますが、周さんは学校をたしか一年程続けたきりで颜を见せんやうになりました。
今思ひ出しますと何でも医学の勉强が心からの目的で中ツタのでしたでせう。
私の家へ别れの挨拶に来られたのでせうが、その最後の面会が何时であつたか忘れてしまひました。
私の写真を死ぬまで部屋に掲げておいてくれたさうですが、まことに嬉しいことです。
以上のような次第でその写真を何时どんな姿で差し上げたのか忆えて居りません。
卒业生なら一绪に记念撮影もするんですが周さんとは一度も写したことがありません。
どうして手に入れられたでせうか。
妻がお渡ししておいたのかも知れません。
私もそう言はれるとその顷の自分の姿を见たいように思ひます。
私のことを唯一の恩师と仰いでいてくれたさうですが、私としましては最初に云いましたように、
たゞ、ノートを少し见てあげた位のものと思ひますが、私にも不思议です。
周さんの来られた顷は日清戦争の後で相当の年数も経ってゐるにもかゝわらず、
悲しいことに、日本人がまだ支那人をチャンチャン坊主と云ひ骂り、
悪口を云ふ风のある顷でしたから、同级生の中にもこんな连中がゐて
何かと众参を白眼视し続け除け者にした模様があつたのです。
私は少年の顷、福井藩校を出て来た野坂と云ふ先生に汉文を教えて贳らひましたので、
とにかく支那の先贤を尊敬すると同时に、彼の国の人を大切にしなければならないと
云ふ気持がありましたので、これが周さんに特に亲切だとか有难いといふ风に考へられたのでせう。
このために周さんの小说や、お友达の方に私を恩师として语ってゐてくれたんでしたら
それを読んでおけばよかつたですね。
そして死ぬまで私の消息を知りたがつていたんでしたら音信をすれば、どんなに本人も
喜んでくれたでせうに。??
今となつては如何とも出来ません。残念なことでした。
何しろこんな田舎に引込んで世间のこと、特に文学と云ふことに门外汉ですから何も知りません。
それでも先日新闻で周さんの鲁迅の死なれたことは新闻で読みました。
今始めて话を聴いて以上のことを忆ひ出したのです。
周さんの御家族はどうしていられませうか。子供さんはおいでゞせうか。
仅かの亲切をそれ程までに恩谊として感激してゐてくれた周さんの霊を厚く吊ふと共に
御家族の御健康を祈って已みません。
谨忆周树人君的介绍
鲁迅写过一篇有名的散文《藤野先生》,回忆他在日本仙台医专留学时的老师藤野先生。(《藤野先生》最初发表于1926年12月10日《莽原》半月刊上)。鲁迅逝世后,藤野先生也写了一篇回忆鲁迅的文章,发表于昭和十二年(1937年)三月号的《文学案内》上。以下是该文的原文(译文)。
谨忆周树人君 鲁迅的事 吧
1904年7月6日,即大约鲁迅到仙台前两个月,藤野由讲师升为教授。
藤野严九郎和鲁迅
藤野生活朴素,当时教授上课,来回都坐人力车,而藤野则是步行,他住在空堀町,离仙台医专有步行三五分钟的距离。鲁迅离开仙台前曾到他家去过,他送给鲁迅一张照片,背面写上:“惜别藤野谨呈周君。”鲁迅为了安慰藤野,曾故意说:“我想去学生物学,先生教给我的学问,也还是有用的。”据说后来藤野跟侄子藤野恒三郎说过:“周君是个好学生……但不是当医生的人。看来是为研究生物学才学生理学和解剖学的。”恒三郎说,听藤野先生的口气,他是相信了鲁迅分别时为安慰他而说的想学生物学的话。
藤野严九郎和鲁迅
藤野生活朴素,当时教授上课,来回都坐人力车,而藤野则是步行,他住在空堀町,离仙台医专有步行三五分钟的距离。鲁迅离开仙台前曾到他家去过,他送给鲁迅一张照片,背面写上:“惜别藤野谨呈周君。”鲁迅为了安慰藤野,曾故意说:“我想去学生物学,先生教给我的学问,也还是有用的。”据说后来藤野跟侄子藤野恒三郎说过:“周君是个好学生……但不是当医生的人。看来是为研究生物学才学生理学和解剖学的。”恒三郎说,听藤野先生的口气,他是相信了鲁迅分别时为安慰他而说的想学生物学的话。
鲁迅藤野先生读后感五十字
藤野先生读后感(一):200字
《藤野先生》回忆鲁迅在仙台留学时期的生活,记叙了鲁迅与藤野先生的相识、相处,离别的过程和对他的怀念。鲁迅初到东京时,看到的是清国留学生在饱含中国人的耻辱的上野公园的樱花树下的身影,听到的是留学生们傍晚学跳舞的喧闹。这让鲁迅甚为厌恶,也正是这样,他去了仙台,在那与藤野先生相识。
藤野先生的衣着模糊,他为鲁迅添改讲义,他就正解剖图,他关心解剖实习,他了解中国女人裹脚。在这一个个片断中,我看到了那个对学生要求严格的藤野先生,那个对鲁迅关爱有加,毫无民族偏见的藤野先生,那个对科学严谨求实的藤野先生。这样一位有着高贵人格的老师,也难怪鲁迅说:“在我所认为我师的之中,它是最使我感激,给我鼓励的一个。”
藤野先生读后感(二):300字
藤野先生是一位对鲁迅很用影响力的人,他是一个很友善很和蔼的人。作为日本人,他并没有对来自弱国的鲁迅加以嘲讽和嘲笑,反而是加以细心关照,对他的讲义都要用红笔认认真真的批改一番,连语法错误都要批改出来,甚至讲义上的一个图里的一根血管移了一点点的位置都要跟学生讲明。他对鲁迅十分关心,以至于中国人的迷信,藤野先生也要为鲁迅考虑。总之就像是很熟悉的朋友差不多,在与鲁迅离别的时候还送了照片,背后还写了惜别两个字。可见他对鲁迅的感情十分浓厚。
每当夜间疲倦,正想偷懒时,仰面在灯光中瞥见他黑瘦的面貌,似乎正要说出抑扬顿挫的话来,便使我忽又良心发现,而且增加勇气了,于是点上一支烟,在继续写些为?正人君子?之流所深恶痛疾的文字。?看这段话,可看出藤野先生对于鲁迅来说,也是一名很好的朋友,也可看出藤野先生对鲁迅的影响有多大。在鲁迅过世后,藤野先生还写了一篇《谨忆周树人君》来纪念鲁迅。
《藤野先生》回忆鲁迅在仙台留学时期的生活,记叙了鲁迅与藤野先生的相识、相处,离别的过程和对他的怀念。鲁迅初到东京时,看到的是清国留学生在饱含中国人的耻辱的上野公园的樱花树下的身影,听到的是留学生们傍晚学跳舞的喧闹。这让鲁迅甚为厌恶,也正是这样,他去了仙台,在那与藤野先生相识。
藤野先生的衣着模糊,他为鲁迅添改讲义,他就正解剖图,他关心解剖实习,他了解中国女人裹脚。在这一个个片断中,我看到了那个对学生要求严格的藤野先生,那个对鲁迅关爱有加,毫无民族偏见的藤野先生,那个对科学严谨求实的藤野先生。这样一位有着高贵人格的老师,也难怪鲁迅说:“在我所认为我师的之中,它是最使我感激,给我鼓励的一个。”
藤野先生读后感(二):300字
藤野先生是一位对鲁迅很用影响力的人,他是一个很友善很和蔼的人。作为日本人,他并没有对来自弱国的鲁迅加以嘲讽和嘲笑,反而是加以细心关照,对他的讲义都要用红笔认认真真的批改一番,连语法错误都要批改出来,甚至讲义上的一个图里的一根血管移了一点点的位置都要跟学生讲明。他对鲁迅十分关心,以至于中国人的迷信,藤野先生也要为鲁迅考虑。总之就像是很熟悉的朋友差不多,在与鲁迅离别的时候还送了照片,背后还写了惜别两个字。可见他对鲁迅的感情十分浓厚。
每当夜间疲倦,正想偷懒时,仰面在灯光中瞥见他黑瘦的面貌,似乎正要说出抑扬顿挫的话来,便使我忽又良心发现,而且增加勇气了,于是点上一支烟,在继续写些为?正人君子?之流所深恶痛疾的文字。?看这段话,可看出藤野先生对于鲁迅来说,也是一名很好的朋友,也可看出藤野先生对鲁迅的影响有多大。在鲁迅过世后,藤野先生还写了一篇《谨忆周树人君》来纪念鲁迅。
本文标题: 谨记周树人君读后感300字(朝花夕拾藤野先生读后感)
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